情報科学芸術大学院大学(IAMAS)
学長 三輪 眞弘氏

僕がドイツに渡ったのは1978年、19歳の時でした。その時からベルリンに6年、デュッセルドルフに12年 - 合わせて18年という、それまで僕が生きてきた年月とほぼ同じ分の時間をドイツで過ごすことになるなど、当時は想像だにしていませんでした。

ベルリン・テーゲル空港; 出典: flickr/Pascal Volk CC BY-SA 2.0

僕にはこの道しかない、ここでなんとか音楽への道を築かなくてならない − そんな覚悟とプレッシャーを抱えてベルリン・テーゲル空港に降り立ちました。留学を前に、晴れやかな笑顔も、弾む心もない − あるのは悲壮感だけでした。

当時、僕は日本社会から脱落した若者だったのです。いわゆる「進学校」と言われる高校在学中、僕は激しい反抗期にあって、ひたすら社会や大人に対して抵抗し、反発しました。

子供から大人まで、自分の意見を言わない、言わないから責任もとらない。本音や本心は言葉にされないのに、とてつもない暗黙の了解や圧力、権力の行使がある。そんな日本の社会に高校生の僕は怒っていたんです。

高校学園祭でのコンサート風景; 出典: © 三輪眞弘

そんな反抗期の僕にぴったりはまったのがプログレッシブロック(Progressive rock)でした。プログレッシブロックとは、60年代後半にイギリスで生まれたもので、それまでのロックのスタイルに捉われることなく、前衛的・先進的にクラシックやジャズなどの他ジャンルの要素も取り入れた、音楽的に非常に凝った複雑なロックでした。

友人(バンドメンバー)宅での練習風景; 出典: © 三輪眞弘

もともと音楽好きで、中学時代からフォークソングをやっていた僕は、大学受験に向かって勉強に励む同級生たちを横目に、仲間達とプログレッシブロックを中心に演奏する「ファンタスティック・ミワバンド」を結成。その活動はかなり本格的で、近くの一橋大学の学園祭やライブハウス、セミプロのバンドからも演奏依頼が入るほどでした。

高校の新入生歓迎イベントのステージで; 出典: © 三輪眞弘

バンドのリーダーでもあり、キーボードとシンセサイザーの担当だった僕は、オリジナル曲の作曲にもチャレンジ。しかし、満足のいくものはできず、高2の時、音楽を“きちんと”学ぶべく、東京芸大の院生のもとを訪れ、音楽理論を学び始めました。

周囲は有名大学へ進学していく中、僕は先が見えない音大浪人生の生活へ突入。東京芸大の作曲科を目指す生徒たちが集う音楽教室に通っていたのですが、ある日、知り合いの紹介で、ドイツでの留学経験がある作曲家の甲斐説宗先生に会う機会を得ました。

甲斐説宗氏の楽譜 ”Musik für Geige und Klavier Ⅱ “; 出典: © 三輪眞弘

僕のその頃の習作(エチュード)に目を通してくださった後、甲斐先生は思いもよらない言葉を発しました。「ドイツにはイサン・ユン(Isang Yun)という素晴らしい作曲家がいるから、手紙を書いてごらん」と。

このまま浪人生活を送っていても、名のある音大に入れるあてもないと感じていた僕は、直感的に甲斐先生のアドバイスに一縷の望みを感じました。早速、いくつかの自作の曲を添えて、ユン先生に手紙をしたためました。「チャンスを与えてもらえるものなら精一杯頑張ってみたい」と。

世界的作曲家の一人、Isang Yun; 出典: Wikipedia

すると、驚いたことにユン先生から返事が戻ってきたのです。そこには、先生が教鞭をとっていたベルリン芸術大学(Hochschule der Künste Berlin: HDK)の入学試験に合格できるのなら、僕を引き受けると書いてありました。

まずは入試に合格すること – ベルリン・テーゲル空港に降り立った僕に、その条件が重くのしかかっていました。右も左もわからないベルリンで、ゼロから始めたドイツ語の勉強と入学試験の準備。毎日が無我夢中でした。

ユン先生からも入試に合格するまでは最低でも1年はかかるだろうと言われていましたが、実技中心の試験だったこともあるのでしょう、半年後に試しに受けてみた入学試験で合格することができました。

ベルリン芸術大学 (現・Universität der Künste Berlin); 出典: Wikipedia CC BY 3.0

こうして20歳のとき、ようやく本格的に作曲の勉強がスタート。しかも、専門は現代音楽(Neue Musik)。僕が高校時代に熱狂したプログレッシブロックと同様、現代音楽も、それまでの“常識”的な音楽様式から逸脱した前衛的な音楽的挑戦であり、先鋭的な音楽表現です。

イサン・ユン先生のもとには、今では、作曲家として著名な細川俊夫氏や、東京芸大教授の松下功氏や古川聖氏もいて、彼らからも多くを学びました。

とは言うものの、作曲の勉強に相当の出遅れを感じていた僕は、ベルリン時代、いつも悶々としていました。本当に作曲家になれるのだろうか、そもそも僕に作曲家としての才能はあるのだろうか。五線紙に音符を書いた途端に、自己批判し、劣等感に襲われる日々。

Image; 出典: flickr/A Chilling Soul CC BY 2.0

転機となったのは、ドイツ国内で行われたある国際作曲コンクールでした。そこでなんと2位に入賞。貧乏学生でしたが、高鳴る胸にコンクール賞金の約10万円を抱えて、すぐに中古パソコンを買いに出かけました。前々から興味があったコンピューター音楽を始めるためです。

手探り状態で始めたものの、音列を算出するプログラミングは楽しくて仕方なく、一気にコンピューター音楽の虜になりました。コンピューター音楽は、音楽の世界に生きる僕に「自由」と「新たな可能性」を与えてくれたのです。

まだまだ音楽の勉強が足りない、そして、勉強したい。そんな前のめりの気持ちが生まれ、定年でユン先生が退官されたこともあり、デュッセルドルフにある国立ロベルト・シューマン音楽大学(Robert-Schumann-Hochschule Düsseldorf)への転入学を決断。

国立ロベルト・シューマン音楽大学; 出典: Facebook/Robert-Schumann-Hochschule Düsseldorf

国立ロベルト・シューマン音楽大学(Robert-Schumann-Hochschule Düsseldorf)では、現代音楽やライブ・エレクトロニクス(Live-Elektronik)の作品で広く名が知られていたギュンター・ベッカー氏(Günter Becker)に師事。大学では、コンピューターによる作曲を続けました。

国立ロベルト・シューマン音楽大学; 出典: Wikipedia CC BY-SA 3.0

目の前が少しずつ明るくなってきて、渡独以来、ずっと音楽のことしか頭になかった僕も、ようやく音楽活動以外の場所にも足を運べる時間と精神的な余裕を持てるようになりました。

今でも懐かしく思い出されるのは、デュッセルドルフ市内の北部にあるカイザースヴェルト(Kaiserswerth)。中世の城塞都市の面影を今に残す、緑あふれる街です。

カイザースヴェルトに残る要塞の遺跡; 出典: flickr/Friedhelm Lichtenknecker CC BY-ND 2.0

気分転換したい時にはよくここに出かけ、ゆっくりと街を散策したり、ライン川沿いに置かれたベンチに腰掛けて、大学の課題や習作について思いを巡らせました。

カイザースヴェルトのライン川沿いに置かれているベンチ; 出典: flickr/Henne CC BY-NC 2.0

また、城壁に囲まれた小さな街、ツォンス(Zons)も心に残っています。街の広い範囲で中世の建造物が良好に保たれているので、まるでタイムスリップしたかのような気分になったものです。

ツォンスの城塞の隅にある風車小屋; 出典: flickr/Daniel Mennerich CC BY-ND-NC 2.0

もう一つ、観光ガイドブックに載っていないお気に入りの場所がありました。それは、デュッセルドルフから車で15分ほどの、隣町ノイス市(Neuss)の郊外にあるインゼル・ホンブロイヒ美術館(Museum Insel Hombroich)。

多くの動物たちも生息するインゼル・ホンブロイヒ美術館構内; 出典: flickr/perceptions (on and off) CC BY-ND 2.0

自然のままの広大な敷地の中に16個のパビリオンがあり、それぞれの建物の中では、不動産業で財をなしたカール・ハインリッヒ・ミュラー氏(Karl-Heinrich Müller)が収集した作品が展示されています。どの建物からどうまわろうと、それは来場者の自由。

インゼル・ホンブロイヒ美術館のパビリオンの一つ; 出典: flickr/Esther Westerveld CC BY 2.0

少し茂みのある森の中や、だだっ広い草原の上、または神秘的な沼のそばに、一つ、そしてまた一つとパビリオンが現れます。鳥のさえずり、木々のざわめき、草花の香りを感じながら、自分の感覚に身を任せて巡るパビリオンとその作品たち。

インゼル・ホンブロイヒ美術館構内; 出典: flickr/perceptions (on and off) CC BY-ND 2.0 

自然と人間、そしてテクノロジーとの共存、また、人間にとっての芸術の意義について、静かに考えることができる時間と空間を与えてくれた場所でした。

デュッセルドルフ – ビルク地区(Bilk)のアパートにて; 出典: © 三輪眞弘

その後も、デュッセルドルフとケルンを拠点にした、僕のドイツライフ第二ステージは1996年まで続きました。人間としても解き放たれ、音楽とは何か、作曲家とは何かを教えてもらったドイツでの生活。作曲家としての僕の原点でもあり、核とも言えます。後編では、思い出深い体験や僕なりの日独比較考察を書き綴ってみたいと思います。

三輪眞弘氏
1958年東京生まれ。都立国立高等学校を卒業。国立ベルリン芸術大学でイサン・ユン氏に、国立ロベルト・シューマン音楽大学でギュンター・ベッカー氏に師事。89年第10回入野賞第1位、91年「今日の音楽・作曲賞」第2位、92年第14回ルイジ・ルッソロ国際音楽コンクール(イタリア)第1位、95年村松賞新人賞、2004年芥川作曲賞、2007年「逆シミュレーション音楽」がアルス・エレクトロニカのゴールデン・ニカ賞(デジタルミュージック部門)を、2010年には芸術選奨文部科学大臣賞(芸術振興部門)など、受賞歴多数。著書に「コンピュータ・エイジの音楽理論」、「三輪眞弘音楽藝術 全思考 一九九八—二〇一〇」、作品集CD「復刻 三輪眞弘」(「赤ずきんちゃん伴奏器」・「東の唄」等収録)、「村松ギヤ(春の祭典)三輪眞弘 – 現代日本の作曲家シリーズ43」など。現在、情報科学芸術大学院大学(IAMAS)学長。

(Interview und Text von Kyoko Tanaka)