「なくなった国」東ドイツの言葉。DDRは、いまも言葉の中に生きている!(後編)

前回は「東ドイツにしかない食べ物(の言葉)」 について書かせて頂きましたが、あの後、「あ〜飲み物も入れればよかった」とか、「あのお菓子、いまも売ってて人気(私はまずいと思う)」とか、まだまだ東ドイツの食については、ネタがつきません! 好評だったので、ぜひまた機会があれば書いてみたいと思います。

出典: 河内秀子

さてさて、今回は、ついに「旧東ドイツ(DDR)のドイツ語」最後の章。ファッションだの、カルチャー関係の言葉に注目してみたいと思います。

えっ、東ドイツでファッション? いやいや、当時のファッション誌を見るとけっこう素敵なんですよ!

ファッション雑誌「Sibylle」の左端の表紙は、「ジーンズ素材で縫えるのはパンツだけじゃない!」という特集企画。アルミホイルで作ったらしいアクセサリーがまたおしゃれ!;出典: 河内秀子

☆ Niethose(東)Jeans(西)> 鋲付きズボン

先の記事にも出てきた「代用東ドイツ語」。西側諸国的な(アメリカ的な?)ファッションの最たるものが、ジーンズ!そしてドイツ語で言い直そうと、ひねり出された言葉がNiethose。

Niet(ニート)とはリベット(鋲)のこと。ジーンズのポケット部分の隅には、ステッチ部分の補強とデザイン性を高める目的で金属製のリベット(鋲)が付いていますよね。

鋲付きズボン(ニートホーゼ)を身にまとい、もじゃもじゃと髭と髪を伸ばしていた若者は、警察や秘密警察から目をつけられていたのだとか。「ニートホーゼ着用の人は、入場禁止」なんて書いてあるクラブもあったそうです。

出典: 河内秀子

先日、50代の旧東ドイツ出身の方に話を聞いたところ、ニートホーゼにも“黄金の狐”とか“ボクサー”などの名前がついたモデルがあって……と、色々教えてくれました。

「80年代に入ってきたベトナムからの移民たちが、ジーンズの縫製を請け負うようになってね。一気に東ドイツ製のジーンズが市場に出回るようになって、“ジーンズ”という言葉が一般化したんだ。西側にも輸出していたはずだよ。」

ジーンズにそんな歴史が絡んでいたとは!

西側からの小包の典型的な一例; 出典: 河内秀子

「でもやっぱり西側に親戚がいる人は、リーバイスとか送ってもらって、自慢げに履いていたな。ベトナム人の仕立て屋に頼んで、リーバイスに似たものを縫ってもらう人もいたよ。でも素材や色が違うからね。」

実用的ファッションを型紙付きで載せていた雑誌「pramo」のパンツ企画にジーンズも登場。自作している人もいたでしょうね。;出典: 河内秀子

自宅でストーンウォッシュ加工風に洗って、“本場風”に仕立て直す人もいたのだとか。なんだか、この辺はどの国にも通じるところがありますね。

実は、リーバイスはハンガリーで作られていた時代があり、休暇でハンガリーに行った若者は、そこで“本物”のジーンズをお土産にすることもあったそうです。

☆Dederon(東)Perlon / Nylon(西)> デデロン
出典: 河内秀子

ニートホーゼが、ジーンズのバッタもんだとしたら、こちらのデデロンは東ドイツで開発された、まさにDDRを代表する合成繊維!名前からして、DDR(デーデーアール)+ナイロン=デデロン。

ベルリンに来たばかりの夏、古着屋で花柄のデデロン製シャツを買いました。ふわっと透けてて涼しそう〜と思って買ったのに、これが死ぬほど暑い!ベトベト!全然汗を通さないんです。

先日、ピオニール(旧東独のボーイスカウト的なもの?)の青いシャツや赤いスカーフがデデロン製だと知ったのですが、やはり「夏場は汗で体に張りついて、嫌だった……」そうです。

☆ Datsche(東)Gartenlaube(西)>ダーチャ
出典: 河内秀子

ロシア語の「ダーチャ」をドイツ語っぽくして、東ドイツで親しまれていたカルチャーの「ダーチェ」。

ドイツには19世紀から、クラインガルテンと呼ばれる小屋のついた市民農園みたいなシステムがあるのですが、これもロシアのダーチャと同じく、もともと自給自足のために始まったもの。

東ドイツ時代のバカンス風景; 出典: 河内秀子

気軽に外国に旅に出ることができなかった旧東ドイツでは、果物や野菜を庭に植えて食糧不足を補うだけでなく、休暇を過ごすための場所としても重要視され、340万ものダーチェがあったそうです。こぢんまりとした庭付きの小屋は、いま見てもなかなかいい雰囲気。

☆ Fahrerlaubnis(東)Führerschein(西)>運転免許証
出典: 河内秀子

直訳すると、“運転の許可証”という東の言葉に対し、“ドライバー証明書”という西の言葉。どちらの言葉も東西どちら側でも通じますし、内容的にも大きな違いはありません。

が、、、私の個人的な印象でいうと、旧東ドイツのドライバーは臨機応変、コントロール上手!

旧東ドイツの街では国産車トラバントを運転するツアーなどもあるのですが、これが結構難しい。コラムシフトの操作でもなんでも、全てが大体なので、コツをつかむまでになかなか時間がかかります。

運転練習用の機械; 出典: 河内秀子

そして簡単に買い替えや修理ができなかったDDR時代を反映してか、修理技術力が高い!

トラバントがうまく走らなくなった時、友人がアルミの洗濯バサミを使って直していて、衝撃を受けたことが……。物資がないのはもちろん悩ましい問題なのですが、ない中で生まれる創意工夫の素晴らしさもあるのです。

☆ Lipsi(東)Rock’n’Roll (西)> ロックンロール
出典: 河内秀子

毎度おなじみ、「代用東ドイツ語」。

ロックンロール!? なんてアメリカ的な!というわけで、東ドイツではロックンロール的なもの、その名もリプシー(Lipsi)という独自の大衆音楽スタイルが作りあげられました。1958年にライプツィヒで華々しくお披露目されたそうですが、あまり長くは続かなかったそうです。

リプシーとは関係ないですが、1965年に、当時東ドイツの国家元首だったヴァルター・ウルブリヒト(Walter Ulbricht)がビートルズについて述べた有名なコメントがこちら。

「西側から来たゴミを、なんでもかんでもコピーしなきゃいけない理由があるのだろうか? 同志よ、イェーイェーイェーだかなんだか知らないが、あんな一本調子のもの、止めなければいけない。」とのことです。

☆ Antifaschistischer Schutzwall(東)Berliner Mauer(西)>反ファシズム保護壁
出典: 河内秀子

さて、ヴァルター・ウルブリヒトの迷言といえば最も有名なのがこの言葉ではないでしょうか。

“Niemand hat die Absicht, eine Mauer zu errichten“
「誰も、壁なんか作ろうという意図はない」

この発言の舌の根も乾かぬ2ヶ月後、1961年8月13日、一夜にしてベルリンの壁を立ててしまったのはウルブリヒトご本人なわけですが。

それまで東西の往来は自由だったため、経済格差や政治的な不満からベルリン経由で西へ脱出する人が増え、1960年には20万人もの東ドイツ国民が西側へと流出。

これが「壁」という強固な手段での境界封鎖へと繋がりましたが、DDR国内では「ファシズムから東ドイツ国民を守るための壁である」と説明されていました。

いまは、東ドイツ政府がいかに自国民を騙していたかを表す、証拠のような言葉の例として、引き合いに出されることが多いです。

☆Schallplattenunterhalter(東)DJ(西)> レコード盤エンターテイナー(DJ)
出典: 河内秀子

そして今回の、横綱級「代用東ドイツ語」はこちら!!
DJ、ディスクジョッキーですが、これをドイツ語で言うならば、というわけでひねり出されたのが。。。レコード盤エンターテイナー! 確かに間違いではありませんが、そこはかとなくダサくなってまいりました。

なんと、試験を受けて「国家認証」と認可を受けたDJだけが“ディスコテークイベント”で音楽をかけることができたようです。いったいどんな試験だったのか?!
東ドイツ国家のお墨付きのレコード盤エンターテイナー、いまもまだこの肩書きで仕事をされている方もいるよう。彼らのイベントに一度足を運んでみたいものです。ちなみに、東ドイツのレコードデザインはいま見てもセンスがいいものが多いですよ!

最後になりましたが、職場にも東ドイツ出身の人が多いから、と「Wörter aus der DDR(旧東独の言葉)」のリストを作って、使用頻度や世代などをレポートしてくれた友人アイコさんに感謝です!

また、一緒にDDR 東ドイツデザインのFacebookサイトを運営している、イスクラさんにも、多大なるダンケを。

みなさん、まだまだ東ドイツネタはつきません!
Facebook、twitterなどで、引き続きぜひ、情報交換できたら嬉しいです。

執筆者:河内秀子
東京都出身。2000年からベルリン在住。ベルリン美術大学在学中からライターとして活動。雑誌『Pen』や『料理通信』『ミセス』、『Young Germany』『Think the Earth』などでもベルリンやドイツの情報を発信させて頂いています。
Twitterで『#一日一独』ドイツの風景をほぼ毎日アップしています。いまの興味は『#何故ドイツではケーキにフォークを横刺しにするのか問題』。美味しくてフォークを刺してあるケーキを探し歩く毎日です。HPもご覧ください。