日本での「アドラーブーム」の火付け役となった『嫌われる勇気』が100万部を突破した。アドラーの痕跡を生まれ故郷オーストリアで探してみた
「人生最大の危険は、用心しすぎることである」
「どんな能力をもって生まれたかはたいした問題ではない。重要なのは、与えられた能力をどう使うかである」
こういった名言で今、日本のビジネスマンから絶大な指示を受けるアルフレッド・アドラー(Alfred Adler)は、オーストリア出身の心理学者だ。
アドラーは1870年にウィーンの郊外ルドルフスハイム(Rudolfsheim)に7人兄弟の次男として生まれた。
アドラーの生家 Mariahilferstraße 208

生家にはアドラーの名前が刻まれている

父親が穀物商を営むユダヤ人の一家だったが、アドラーは1904年にキリスト教に改宗した。幼い頃は、病弱だったが友達思いの人気者だったという。
アドラーが通った、ウィーンのヘルナルス(Hernals)にあるギムナジウム「Hernalser Humanistische Gymnasium」。成績はあまり良くなかったらしい。

1895年にウィーン大学を卒業し、1897年にはライザ(Raissa)と結婚。4人の子供に恵まれる。
アドラーの妻と子供達

1926年に初めてアメリカで行った講演旅行が成功すると、その後は一年の半分ほどを講演と診察の為アメリカで過ごすようになる。
強烈なオーストリア訛りの英語で話すアドラー
1934年、一家でオーストリアからアメリカに移住する。
アメリカ移民の際の書類

楽観的だったというアドラーは、1937年スコットランドで亡くなるまで、自分の知識を広めることで、世界をより良くできるという信念を持ち続け、精力的に講義や診察を行った。享年67歳だった。
アドラーの遺骨は、行方不明となっていたが、スコットランドのエジンバラの火葬場で見つかり、2011年にウィーンに戻った。現在はウィーン中央墓地に名誉埋葬されている。
ウィーンの中央墓地グループ33G-43にアドラーの墓がある

アドラーの心理学は、欧米では一般的に「Individual psychology」として知られている。それは、アドラーが「個人(Individual)」をそれ以上分けることができない存在と認識し、自身の心理学を「個人心理学(Individualpsychologie)」と言ったからなのだが、日本では、「社会」と対立する「個人」を追求する自己を中心とした心理学のように誤解されることを懸念し、「アドラー心理学」と呼ばれている。
彼は「劣等感(Minderwertigkeitsgefühl)」や「劣等コンプレックス(Minderwertigkeitskomplex)」、そして「優越コンプレックス(Überlegenheitskomplex)」という概念を生み出した。これが「身体の不調は精神の不調と関係している」とする「心身医学」の始まりだった。
アドラーは晩年「共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl)」こそが、人生の意味だと考えるに至った。家族や仲間、そして社会といった共同体に貢献することこそが、幸福に繋がると考えたのだ。
「共同体感覚」についての著書『Der Sinn des Lebens』を発表した頃のアドラー。家族と友人たちに囲まれて

アドラーはフロイトの説に異議を唱えた最初の心理学者だ。これは心理学のコペルニクス的転回と言ってもいいものだった。全てを本能のせいにするのではなく、目的に向かって理性的に進んで行けるようになったのだから!
2009年、ウィーンの道にアドラーの名が付けられた。「アルフレッド・アドラー通り」は、中央駅に近く観光客にも行きやすい場所なのだが、なんて変哲もない普通の道なので心して訪れよう。
